2022年05月13日

寺報「糸ぐるま」令和4年5月号より

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先日、お彼岸にお勤めする予定であった永代経を、約一か月遅れで寺族のみで執り行わせていただきました。

本来ならご門徒の皆さまとともに、ご講師の法話をお聞かせいただく場とすべきものではありますが、事情によりこのような形となりましたこと、お詫び申し上げます。

なお、永代経当日の様子は動画として、オンライン上で公開しております。
https://www.youtube.com/watch?v=0YCeWk18BBo&t=2857s

今回、永代経を遅らせていただいた理由なのですが、三月に私の妻の実母と、私の実父が続けて亡くなり、葬儀等がちょうどお彼岸に当たったためでした。

妻の実母は令和元年10月、交通事故に遭い、そこから2年5か月に渡り入院生活を続けてきました。
その間、何度にもわたる辛い大きい手術にも耐えてきましたが、3月15日に入院先の病院で息を引き取りました。

翌十六日、今度は私の実父がお世話になっていたグループホームから、父の体調が芳しくないからすぐに来たほうがよいとの連絡がありました。

母と二人でホームに向かいますと、父は酸素マスクを着け、肩で息をしながらベッドに横たわっておりました。母が父の名前を呼んでみるも、反応はありませんでした。
その日の夕方、父も亡くなりました。

今回、妻の母、私の父と続けて亡くなるという、ある意味大変貴重な体験から、色々なことを考える機会を与えてもらえました。
普段から、頭では分かっていることではあったのですが、

「人って本当に亡くなるんだ」

ということが、なによりもすごく現実的に感じられました。

今日元気に生きているからといって、明日も同じように元気に生きているとは限らない。当然のこととして頭では理解しているつもりなのですが、どうしても心のどこかで

「まぁ、きっと明日も生きてるだろう」

と考えてしまう私がいます。
しかし義母、父は、そんな私に向かって、

「この世でのいのちというのは、いつ何時失うか分からないものなんだよ」

「今は元気でも、必ず歳をとり、病になり、このいのちを終えていかねばならないものなんだよ」

ということを、いのちを終えていく姿を私に見せつけることによって教えてくれてました。
私もいずれこの世でのいのちを終えなくてはならないときが必ず来ます。この義母、父のこの世でのいのちを終えていく姿とは、間違いなく私の未来の姿でもありました。

しかし、いのちはそれで「すべておしまい」なのかといえば、決してそうではでないのです。
浄土真宗では、阿弥陀さまのお念仏のみおしえに出遇い、素直に聞き受けた者は、この世でのいのちを終えたならすぐさま浄土に生まれ、仏とならせていただくことができる、とされています。

そして、仏となったならば、永遠のいのちを得て再びこの世界で自由自在に人々を救済していくことができるのです。

義母、父、そして先にこの世でのいのちを終えられた方々は今、浄土で仏となり、阿弥陀さまとともに、残された私たちに

「大丈夫、あなたも必ず仏とならせていただくことのできる身なんだよ。」

と常に導き、はたらきかけてくださっています。

私たちは阿弥陀さま、先に往かれた方々の声を素直に聴き受け、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と、お念仏を称えさせていただきながら、しっかりと自分のいのちを見つめ、人生を歩んでいく、このことがとても大切なことでありましょう。
posted by Gaku at 21:59| 日記

2022年03月02日

寺報「糸ぐるま」令和4年3月号より

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2019年12月、人類の前に新たな脅威が現れた。ご存じ新型コロナウイルス感染症である。

東アジアで発見されたその新しい感染症は、その姿を私たち見せることもなく日常生活の中に入り込み、瞬く間にパンデミック(世界的流行)とまで呼ばれるようになった。現在、この感染症はウイルスの変異を伴いながら、流行が続いている。

私はこれまで、もし共通の脅威が現れたら、今まで争っていた人々も、一旦はその争いを止め、ともにその脅威に立ち向かっていくものだと思っていた。とりあえずこの共通の敵を何とかしないと、自国だけでなく、人類全体にとって不利益となるからである。

しかし先日、ロシアが国境を越えウクライナへ侵攻したことは、その私の考えを否定するものであった。まだ世界的に感染収束の見通しが立たない中、兵力でもって隣国ウクライナをねじ伏せようとしている。プーチン大統領は、自分たちの都合で侵攻することが、世界がコロナ禍の脅威から脱することよりも重要であると考えているのかもしれない。

話題を私自身の事にする。

先日まで開催されていた、北京冬季オリンピックをテレビで観ていた時のことである。ある競技で日本代表選手がメダルを取るか取らないかの微妙な位置に付けていた。続けて他国の代表が登場した際には、私の心には次のような感情があった。

「どうかミスしてくれ」

なんとも情けないことである。競技である以上、そこには勝ち負けという、ある意味宿命を背負っているのは仕方ないことではあるが、自国の選手がメダルを取れるのであれば、他国の選手がどんな思いをしても構わないという心の現れである。

また、先日私は三回目のワクチン接種の予約を入れた。いっぱいにならないうちに早く予約しなくては、という気持ちで急いで電話をしたのである。

私はふと考えた。この早く予約を入れたいという気持ちは、他の誰かに取られる前に、そのワクチンを自分のものとして確保しておきたいということと同じではないだろうか。

こう考えると、事の大きさ、立場の差はあれども、私とプーチン大統領では本質的なところでの違いはないのではないかと思うのである。

他人より自分が大事、他の家族より自分の家族が大事、他国より自国が大事。私たちはどうしてもこの執着から離れることができずにいるのである。その結果として、他を傷つけ、奪い取り、あげくに殺してしまうような歴史が繰り返されてきたことは言うまでもない。

浄土真宗の要(かなめ)のお経とされている『仏説無量寿経』には

「兵戈無用(ひょうがむよう)」

という言葉が出てくる。これは、阿弥陀仏の願われている世界では仏法にしたがった生活が営まれ、豊かであり平和である。ゆえに兵戈(兵力や武器)を持つ必要もない、ということである。私たちの世界とは正反対ではあるまいか。

この仏の世界を理想論として片づけてしまう事はたやすいことであろう。現実世界では戦わなければならない時もあるのだ、という主張もあろう。しかし、その現実世界というものを作り出している根本は、私の中にある執着であることを知る必要があるのではないかと私は考える。
この執着を離れることがでる世界こそ、さとりの世界であり、阿弥陀仏が願われた世界なのであろう。またその世界は単なる理想論ではなく、私たちが向かうべき世界なのだ、ということを仏法は教えてくれるのである。

ところで親鸞聖人が『信文類(しんもんるい)』に引文された『涅槃経(ねはんぎょう)』には

「無慚愧(むざんぎ)は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」

とある。罪を恥じない者はもはや人ではない、ということである。私たちはその執着から、自分の都合で物事を判断し、自分だけが正しいと誤解して他を批判し、結果罪を犯したり、あるいは犯そうとしてしまうことから逃れられない、危うい存在であるということしっかりと心に留めておかねばならない。そのうえで、その罪を恥じながら「人として」生きていく、これが大事なのではないかと考えるのである。
posted by Gaku at 12:38| 日記

2022年01月09日

寺報「糸ぐるま」令和4年1月号より

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新しい年が参りました。みなさまどのような年末年始をお過ごしになられたでしょうか。
昨年は新型コロナウイルスに振り回された一年でした。みなさまも色々とご苦労なさったことでしょう。

覚円寺でも、予定していた法要をオンラインに切り替えたり、写偈の開催中止をしなくてはならないなど、とても大変でした。
今年こそは予定通りに進めていけるよう願っております。

しかし、オミクロン株など新しい変異株の登場があるなど、まだまだ油断ができない状況が続いています。用心を忘れないようにしなくてはなりません。

さて、その写偈では、途中に私(住職)が登場して、『正信偈』の内容について、私が理解している範囲で、少しお話しをさせていただいているわけです。

昨年最終の写偈では、曇鸞大師(どんらんだいし)について書かれている箇所の続きのお話をいたしました。
ところで、私たち浄土真宗でもっとも中心となるお経といえば『仏説無量寿経』です。このお経では、阿弥陀さまが仏さまになる際、どのような救済力をもった仏となり、どのような功徳のある浄土を作り上げたいと願われたかということを、四十八種の誓いの言葉、すなわち誓願として顕されています。

曇鸞大師はその著である『論註』の中で、それら誓願の中から第十八願、第十一願、第二十二願の三つの願でもって

・どのようにすれば浄土に生まれることができるのか
・浄土に生まれたならば、どのようなさとりの境地を開かせていただけるのか

ということを証明してくださいました。

まず第十八願で、私たちにお念仏させることで、その私たちが次生で浄土に生まれることを今生において完全に確定し、第十一願で、その浄土に生まれるものは必ず仏となることができるようにされました。

さらに仏となったものは第二十二願によって、菩薩の姿となってこの娑婆に戻り、普賢(ふげん)菩薩のようにあらゆる人々を自由自在に救済することができるようになる。
曇鸞大師は、阿弥陀さまのこのような救済の次第を明らかにされたのでした。

普段、法話を聴聞なさる機会がない方の中には、浄土を「パラダイス」のように捉えておられる方がおられるかもしれません。

確かに浄土を「極楽」と呼ぶ場合もありますから、そうイメージされるのも仕方ないことです。
しかし、阿弥陀さまは、私たちを浄土に生まれさせ、そこでただただ楽な生活をさせようとされているのではありません。
私たちの究極の目的は、仏となり、一切の生きとし生けるものを救済していくことである、ということを忘れてはなりません。

阿弥陀さまは私たちを必ず仏に育て上げ、その仏として備えた実力により救済活動の実践をさせていく、そこまでのしくみを阿弥陀さまの側で願われ、完成したうえで、私たちに恵み与えてくださっているのです。

さらにそこには私たちのはからいというものは一切必要ありません。「阿弥陀さまの独りばたらき」という言葉がありますが、まさにその通りで、私たちは阿弥陀さまの誓願の力に乗ずる、まかせることによってのみ、これらが実現します。

能力や感性の違いによって救われたり救われなかったりすることはありません。
優れた人も劣った人も、善人も悪人も、誰もが救われ、仏とならせていただくことができる、という大きな救済のはたらきが、私たちのところに「なむあみだぶつ」のお念仏となって届いてくださっているのです。

届いた阿弥陀さまの救済のはたらきをそのまま聞き受け、そのまま「なむあみだぶつ」とお念仏をいただけるかどうか、これが唯一の問題となってくるわけです。
posted by Gaku at 14:22| 法話