
先日、お彼岸にお勤めする予定であった永代経を、約一か月遅れで寺族のみで執り行わせていただきました。
本来ならご門徒の皆さまとともに、ご講師の法話をお聞かせいただく場とすべきものではありますが、事情によりこのような形となりましたこと、お詫び申し上げます。
なお、永代経当日の様子は動画として、オンライン上で公開しております。
https://www.youtube.com/watch?v=0YCeWk18BBo&t=2857s
今回、永代経を遅らせていただいた理由なのですが、三月に私の妻の実母と、私の実父が続けて亡くなり、葬儀等がちょうどお彼岸に当たったためでした。
妻の実母は令和元年10月、交通事故に遭い、そこから2年5か月に渡り入院生活を続けてきました。
その間、何度にもわたる辛い大きい手術にも耐えてきましたが、3月15日に入院先の病院で息を引き取りました。
翌十六日、今度は私の実父がお世話になっていたグループホームから、父の体調が芳しくないからすぐに来たほうがよいとの連絡がありました。
母と二人でホームに向かいますと、父は酸素マスクを着け、肩で息をしながらベッドに横たわっておりました。母が父の名前を呼んでみるも、反応はありませんでした。
その日の夕方、父も亡くなりました。
今回、妻の母、私の父と続けて亡くなるという、ある意味大変貴重な体験から、色々なことを考える機会を与えてもらえました。
普段から、頭では分かっていることではあったのですが、
「人って本当に亡くなるんだ」
ということが、なによりもすごく現実的に感じられました。
今日元気に生きているからといって、明日も同じように元気に生きているとは限らない。当然のこととして頭では理解しているつもりなのですが、どうしても心のどこかで
「まぁ、きっと明日も生きてるだろう」
と考えてしまう私がいます。
しかし義母、父は、そんな私に向かって、
「この世でのいのちというのは、いつ何時失うか分からないものなんだよ」
「今は元気でも、必ず歳をとり、病になり、このいのちを終えていかねばならないものなんだよ」
ということを、いのちを終えていく姿を私に見せつけることによって教えてくれてました。
私もいずれこの世でのいのちを終えなくてはならないときが必ず来ます。この義母、父のこの世でのいのちを終えていく姿とは、間違いなく私の未来の姿でもありました。
しかし、いのちはそれで「すべておしまい」なのかといえば、決してそうではでないのです。
浄土真宗では、阿弥陀さまのお念仏のみおしえに出遇い、素直に聞き受けた者は、この世でのいのちを終えたならすぐさま浄土に生まれ、仏とならせていただくことができる、とされています。
そして、仏となったならば、永遠のいのちを得て再びこの世界で自由自在に人々を救済していくことができるのです。
義母、父、そして先にこの世でのいのちを終えられた方々は今、浄土で仏となり、阿弥陀さまとともに、残された私たちに
「大丈夫、あなたも必ず仏とならせていただくことのできる身なんだよ。」
と常に導き、はたらきかけてくださっています。
私たちは阿弥陀さま、先に往かれた方々の声を素直に聴き受け、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と、お念仏を称えさせていただきながら、しっかりと自分のいのちを見つめ、人生を歩んでいく、このことがとても大切なことでありましょう。
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