2020年03月11日

こんなときだから

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世間はコロナウイルスの影響で、色んな集まりやイベントが自粛されていますね。

お坊さん業界(?)も同様で、各お寺の法要や法座が中止になったりしています。
覚円寺も彼岸会を延期、3月度の写偈が中止になりました。

でも、こんなときだからこそ!ということで、ネットでの法話配信を企画された方がおられます。

『浄土真宗 法話生配信!3/21.22 彼岸に僧がLive!』

3月21日:花園一実 副住職(圓照寺)、 酒井義一 住職(存明寺) 
3月22日: 中根 信雄 住職 (明福寺)、 瓜生 崇 ネコ住職(玄照寺)

4人の真宗大谷派の講師がたが出演されます。
ネットという便利なツール、こんなときだからこそ生かさないといけませんね!
posted by Gaku at 19:42| 日記

2020年03月08日

寺報「糸ぐるま」令和2年3月号より

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先日、ある宗教サイトで浄土真宗のことが書かれていたので読んでおりました。

そのサイトでは、極楽浄土なんていうものは作り話であるため全く意味がない、というような表現で、浄土真宗が辛辣に批判されていました。

普段のご命日にお勤めさせていただいている『阿弥陀経』を見ますと、

「ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、極楽と名づけられる世界がある。そこには阿弥陀仏と申しあげる仏がおられて、今現に教えを説いておいでになる。」

というように、現代人にとっては到底信じられないような内容が描かれています。

私たちは地球が丸いことを子供の頃から知っています。どんどん西へ進んでいっても、結局は同じところに戻ってきてしまいますよね。やっぱり浄土なんてものは作り話で、嘘が描かれた夢物語なのでしょうか。

約二千五百年前にインドでのお釈迦さまの説法が伝えられたお経ですが、確かにその内容をそのまま文字通り受け取ると、とんでもないものになってしまいます。

しかし、ここで大切なのは、お経に描かれた内容を「どのように読んでいくか」なのです。そのお経でもって何を表していこうとされたのか、ということを正しく理解しなければなりません。

ただし、私たちの通常の理解力では、それはとても困難です。そこで、お釈迦様の説法を正しく私たちに理解させてくださる、高僧がたの「ご解釈」が必要となってくるのです。

七高僧の第二祖・天親菩薩という方が1600から1650年前頃の北インドに出られ、『浄土論』という書物を著されました。この中で天親菩薩は阿弥陀仏の浄土を次のようにあらわされます。

「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」

現代風に言うと、お釈迦様が説いてくださった阿弥陀仏の浄土の世界とは、私たちの理解を超越した異質な世界のことなんですよ、ということでしょう。

仏教とは「感性の宗教」である、と言われることがあります。

私たちは普段、自分の感性でものの価値づけをして生活をしています。それが自分にとって好ましいのか、そうでないのか。あるいは高価なものなのか、安価なものなのか、といった具合です。分別することが当たりまえな世界が私たちの観ている世界です。

それに対し、覚りを得た方は、ものに価値づけをしないのです。覚りを得た方の感性で観る世界というのは、すべてが平等に尊く光り輝いているような世界だそうです。

全く同じものを観ても、観る人の感性によってその見えかたは全く異なってくるでしょう。

覚りを得た方の感性と、私たちの感性の間にはとてつもない差があるんだということを、『阿弥陀経』では浄土が「西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところ」という距離表現を用いて譬喩(ひゆ)なされたのです。

覚りの世界、浄土というのは私たちの感性、理解の範疇を超越したものですから、本来的には言葉化できません。その言葉化できないものを、お釈迦さまの智慧で言葉化していったものがお釈迦さまの説法であり、伝わっているお経です。これらを私たちの感性でとらえてしまうと浄土も荒唐無稽(こうとうむけい)にしか思えないのです。

しかし、お釈迦さまが説かれた浄土というものを、私たちにどのように受け止めたらいいのか、ということを天親菩薩は『浄土論』で教えてくださいます。そして浄土が単なる作り話や夢物語ではないということを私たちに伝えてくださっているのです。
posted by Gaku at 18:28| 法話

2020年01月22日

令和2年度報恩講をお勤めしました

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1月19日、覚円寺では年一度の報恩講をお勤めさせていただきました。
今回もご講師として、泉佐野市・光瀧寺住職、喜多唯信先生をお迎えし、ご法話をいただきました。

最初に今回の「報恩講」という法要の名前のもつ意味についてお話しくださいました。

阿弥陀様、お釈迦様、祖師方の「恩」へ「報いる」ことの難しさ。
親鸞聖人がお作りになられた「恩徳讃」のご文にみられる

「身を粉にしても報ずべし」
「骨をくだきても謝すべし」

という言葉のもつ厳しさ、重さ。
親鸞聖人は「阿弥陀様のご恩」「祖師方のご恩」というものがそれだけ大きく、深いものであるとお考えであったということでした。

また、阿弥陀様は「鏡」のような仏様であるともおっしゃいました。
煩悩の根本である「我執」から離れられないのが私たちであります。

「我に執着しているのが、あなたの存在なのだぞ」

と、私の真実の姿を教えて下さる方こそが阿弥陀様という仏様でした。
それは「鏡」のごとく、私の姿そのものの姿を映しだし、知らせてくださっているとのことでした。

最後に、浄土真宗では人の死は「死に亡びる」という意味の「死亡」ではなく、

「往(い)き生まれる」

つまり「往生」であるとお聞かせいただきました。

「死んだらおしまい」と世間ではよく言われます。
しかし、この世でのいのちを終えたとしても、それですべて「おしまい」なのではなく、「いのち」は続いていく。

阿弥陀様はこの私を「ほとけ」とお育て下さり、そして必ずまたこの世に還らしめていただくのだ。
そして、あらゆるものを救済してゆく「いのち」となる。これが浄土真宗のいのちの捉え方なのでしょう。
posted by Gaku at 23:04| 日記