2021年01月02日

寺報「糸ぐるま」令和3年3月号より

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先日、ある方とのメールの中で、私は好きな言葉について書かせていただきました。その言葉とは

「人に優しく 自分に甘く」

というものです。

普通なら、自分には厳しくしなくてはいけないとするところでしょうが、あえて自分にも甘くするというこの言葉。誰が言い出したのかは判りませんが、私の中での理想の生き方となっているのです。

私は20代の頃から、人前に出ると赤面や多汗のほか、字を書くときに手が震える書痙(しょけい)が顕著に現れるようになり、大変苦しみました。

お寺の仕事を継ぐことになりますと檀家さんや大勢の前で話す機会が増え、それらの症状は治まるどころか、ひどくなるばかり。心のどこかで、私は何をやってもダメ人間だと思いながらも、自分や周りをごまかしながら生活してきました。

しかし40代になったあたりから、変化がありました。赤面するのも、汗をかくのも、手が震えるのも、それが自分なんだから、それはそれで仕方ない、と受け入れられるようになってきたのです。このことで私は気持ちが少しだけ楽になったように思えました。

仏教では

「一切皆苦(いっさいかいく)」

と説かれます。全てこの世は苦である、というものです。
ここでいう苦とは「思い通りにならない苦しみ」をいいます。自分はこうありたいのになれていない。周りからこう思ってほしいのに思ってくれない。あれが欲しいのに手に入らない。これ以外にも、思い通りにならないことってたくさんありますね。

自分で決めた価値観のものさしを周りや自分にあてがって、これではダメなんだ、もっとこうあるべきなんだ、と頑なにこだわってしまうのが私たちです。そんな私たちに、

「思い通りにならないのが当たりまえ、こだわりこそが苦しみの原因である」

と教えられているのです。

周りだけでなく、自分自身さえも思い通りにはなりません。私は冒頭の「人に優しく 自分に甘く」という言葉に、周りだけでなく、自分も、そのまま柔らかく受け入れていくような心のあり方を感じているのです。そんな柔らかい心が私の理想です。私はこのような生き方がしたいと思うのです。こだわりを棄て、そのままの自分を認め、他を認めていくことで、苦しみを無くしていくことができるのだと思います。

しかし現実の私を見ますと、少しでも自分の思った通りにならないことがあると、すぐにイライラしたり、腹が立ちます。人のことを妬みます。いまだ他を責め、自分を卑下してしまっている私です。

その姿は理想とは逆の生き方であり、自分が望んでいる姿からはほど遠い私です。ほんとうに自分の心さえも思い通りにはならないんだということが、このことからもよくわかります。

仏教に出遇うということは、ほんとうの自分の姿が明らかにされるということです。表向きはいい顔をしておきながら、心の中では周りにも自分にもダメだ、ダメだと厳しく当たってしまっている私がはっきりと見えてきます。私のこだわり、執着というものの根深さを知らしめられるのです。

そのような、執着から離れることができない、自分ではどうしようもない私だからこそ阿弥陀さまは、ほおってはおけないのです。決して見捨てることなく

「そのままのお前を救う、まかせよ」

と、常に願いをかけてくださっているのです。なんとも心強いことです。

自分のほんとうの姿から眼をそらすことなく、阿弥陀さまの救いのお声をしっかりと聞き受けながら生きていく、これが真宗の念仏者なのだと私は思っています。
posted by Gaku at 20:06| 法話

2020年10月31日

寺報「糸ぐるま」令和2年11月号より

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新型コロナウイルスの影響で、お寺や本山の行事にもいろいろ影響が出ています。

コロナ禍では困ったことがとても多いのが事実です。会議にしても、画面やマイクを通してではなく、実際に顔を合わせて話をしたほうが、相手に気持ちも伝わりやすいでしょう。また参加者どうしの親睦もはかりやすくなります。早くいつも通りの集まりができるように戻ってほしいものです。

その反面、これがきっかけで便利になったと感じることもあります。

本山では今年、オンライン講座を新設されました。滋賀県の本山で定期的に行われる講座に、毎回時間をかけて赴くというのは現実的に難しいことです。しかし、オンラインだと、受講時間の確保さえすれば、自室からでも参加できます。

さらに、今までだったら恐らく縁がなかったであろう、遠方地の講座にも距離を超えて参加する機会もできました。

先日も広島で開かれた講座にオンラインで参加し、ご法義を聞かせていただきました。

テーマは「タノム・タスケタマヘ」というものでした。

私が僧侶としての勉強のために入学したのは、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の学校でした。本願寺派では伝統的に、浄土真宗の教学を学ぶにあたり「安心論題(あんじんろんだい)」という、現在は一七題に絞られたテーマについて、その内容を文字ひとつひとつの意味から、きっちりと押さえていくというものがあります。
これは学ぶ者が、教義の内容を誤解して混乱を起こさないようにするため定められたものです。

その論題のひとつがこの「タノム・タスケタマヘ」です。

本願寺の八代門主、蓮如上人が『御文章』などにこの「タノム」や「タスケタマヘ」という言葉を用いられていますが、これらの言葉をどのように解釈すべきか、というものです。

真宗木辺派においてはこの『御文章』を拝読することはありませんが、木辺派の第四代門主、存覚上人のお言葉をまとめられたとする『御安心章』にも「タノム」「タスケタマヘ」という言葉が見られます。

この論題は、阿弥陀さまと私たちの関係について、とても大切なことを教えてくれているのだと思います。

みなさんは阿弥陀さまに向かってお念仏するとき、どのように思いながら「ナムアミダブツ」と称えさせていただいているでしょうか。なかには

「阿弥陀さま、どうか私をお助けください」

と思いながらお念仏をされている方がおられるかもしれません。

「タノム・タスケタマヘ」をそのまま現代語に置き換えたならば、それは間違いないように思えます。

しかし浄土真宗では、阿弥陀さまは「私の側から救済を依頼する」仏さまではないとされるのです。
ここでの「タノム」は漢字にすると「憑む」とあらわします。

この「憑」には「たのみにする・よりかかる」などの意味があります。「頼む」ではありません。阿弥陀さまの本願力、つまり私を必ず仏に育て上げてみせるというはたらきを「たのみにする」「おまかせする」という意味となります。

「タスケタマヘ」は、阿弥陀さまの私たちを「必ずたすける」という願いが先にあって、その願いを私たちが聞き受けた言葉です。

つまり「どうぞその願いどおりにしてください」と受け入れる意味です。

とても雑な例ですが、食堂で「カレーを食べたい」と言っている人に「どうぞ食べたまえ」と言うのと同じ意味です。先に「カレーを食べたい」という願いがあって、それを受け入れた言葉が「食べたまえ」ですね。

阿弥陀さまは、私たちが「助けてほしい」と思うよりはるか以前から、すでに「私にまかせろ必ず救う、仏とならせる」と誓われ、「ナムアミダブツ」のお念仏となって今、私たちのところに届いてくださっているのです。私たちは阿弥陀さまのこのお心を
そのまま、

「おまかせします。どうぞその願いどおりにおたすけください。」

と受け入れていくのが「タノム・タスケタマヘ」という言葉の意味でありました。

(画像は真宗木辺派『平成新編勤行集』より『御安心章』第十二通)
posted by Gaku at 14:51| 法話

2020年08月29日

寺報「糸ぐるま」令和2年9月号より

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八月度の写偈はコロナ禍真っ只中ゆえか、参加された方が少なかったのは少々寂しかったですが、無事にできたことをありがたく感じております。

午後三時からの住職プチ法話ですが、前回に引き続き、天親菩薩を讃嘆されている部分について、お話をさせていただきました。

天親菩薩はその生涯でたくさんの書物を著わされました。浄土系宗派では特に、大乗仏教に転向なさったのちの著作である『浄土論』を重要なお聖教として大切にしています。

『浄土論』は正式には『無量寿経優婆堤舎願生偈(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)』というとても長いタイトルの書物になります。

このタイトルにあります「優婆堤舎」とは、サンスクリット語の「ウパーディシャ」の音訳で、「近づけていく」という意味があるそうです。

天親菩薩はこの書物を著わすことで、『無量寿経』に説かれているお浄土というものを、私たちに正しく理解させていこうとされているのでした。文字通り、お浄土を私たちに「近づける」ための書物、というわけですね。

『無量寿経』を見ますと、阿弥陀さまのお浄土には、金や銀の樹などがあったり、宝でできた建物があったり、宝の池があってその底には金銀の砂があったりと、私たちの常識ではあり得ない荒唐無稽な世界として描かれています。

「そんな世界があるわけがない!」

と思ってしまうのが私たちというものでしょう。しかし、天親菩薩は『浄土論』でこのようにおっしゃいます。

 「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。」

お浄土の世界というものは、私たちの常識や感性を超越した姿である、とされるのです。

仏教は「感性の宗教」だ、と呼ばれることがあります。

私たちはそれぞれの感性でもって、自身の生きている世界を観て、判断し、優劣を決めています。
そこには美しい、優れているものもあれば、汚れている、劣っているものがある、と分別し、それを当然のことと受け入れている私たちがいます。

しかし、究極まで感性が高まったならば、そのすべてに優劣の区別はなくなり、すべてが美しく尊いものとなっていきます。

この究極まで感性が高まっている状態の方を仏と呼ぶのです。仏の感性では、この世のすべてが光り輝く尊いものなのです。

残念なことに、私たちの感性では、そのような世界をどうしても理解することができません。

天親菩薩は、私たちの感性を超越した、到底私たちに理解ができないこの究極の感性の世界を、私たちの分かるように言葉で表現されたのが、お経に描かれたお浄土の姿なのだ、とお示しくださっているのでしょう。

阿弥陀さまは、お浄土という究極の感性の世界を説き知らしめることで、私たちの感性が低いことに気づかせ、お浄土に生まれたい、究極の感性というものを得たい、という心を私たちに起こさせようとされているのです。

(写真はwikipediaより興福寺北円堂の世親(天親)菩薩像)
posted by Gaku at 14:22| 法話